先日、陳凱歌監督の「人生は琴の弦のように」を鑑賞したのだが、この作品はとにかく強烈だった。主人公である老師と弟子のシンプル、いや複雑な人間関係、そして生きるとは何かという問いに満ち溢れた大スケールな作品である。こういう映画を見るといつも思うのが、自分は意味のある生き方をしているか、ということ。私がこの作品から感じたのは二つ。人生とははかないもの、そして、結果よりもそれにたどり着くまでの過程が大切なのだ、ということである。当然この映画を見た方々それぞれ、違う感じ方をしたと思われるが、自分はこの二つに大きく考えさせられた。
人生とは、はなかいものである。老師は琴の弦が切れるまで毎日琴を奏でる。そしてついに弦が切れる。自分の師匠の教えによって、琴と共に持っていた盲目の処方箋を薬屋に持っていく。そこには60年間の成果が託されているはずだった。しかし、実際には白紙の紙が入っていただけだったのだ。それをみた薬屋の亭主は冗談とばかりに笑ったが、数十年もそれだけのために生きてきた、また目が見えるようになるという計り知れない期待を胸に薬屋に駆けつけた老師の夢は・・・一瞬のうちに消えてしまった。老師は行き場を失った。自分の修行が足りなかった、と思うにも、あまりに唖然として自分を失ってしまう。この老師は悟ったのだろうか、人生とははかないものであるということを・・・。それとも自分の修行が足りなかった、と、心から新しい修行へと旅立てるだろうか・・・。夢をかなえようと必死にがんばる人々はたくさんいるが、実際に夢をかなえたあとのはかなさを知っている者も大勢いることだろう。かなえた夢は実際に期待していたものと違ったり、もしくは夢をかなえたことで、生きる目的を失ってしまうものもいる。この老師はその一人になりかねない。しかしたとえ目的を失ってしまったとしても、それは誰もが通る絶望、そして成熟という道への一歩でもある。
老師の夢ははかなく散った。そして老師は自分の夢を弟子に尽くした。弟子はすでに自分の視力が戻らぬことを知っていた。それでも老師の夢、そして自分の想いを尽くして、修行の旅に出る。弟子の琴には愛した女性のラブレター。弟子、シートウと女性の恋は周りから反対され、女性はついに自分の身を捨てて永遠の愛を誓う。そしてシートウはその愛に答えようと、女性からの手紙が入っている琴を片手に修行へ。そして老師との間に新たな師弟関係が気づかれる。人生の旅。長い、そしてはかなく、終わりが来るのかもわからない。そんな中へ、わずかな希望を求めて生き抜く老師と弟子がなんとも力強く、胸をうたれてしまった。
この映画を見終わり、本当に自分がいかにだらしなく毎日を過ごしているのかを実感させられた。映画の中のキャラクターたちは、人生において、私よりも数十倍も先輩に感じた。一生懸命に生きることのはかなさと大切さが身にしみる。最近私は周りから、一生懸命に生きるよりもリラックスして生きたほうがいい、などと言われることが多い。確かにそれも健康的でいいかもしれない。そしてその方が人生意外といい方向へ向かうかもしれない。でも私はいつも一生懸命になるのが好きだ。やりたいことがあったらそれに徹底的にのめりこむ。がさつな性格とは正反対に、完ぺき主義の自分は小さいことにも独自のこだわりを持つ。そのためひとつのことを習得するのにかなり時間がかかり、時には必要以上にのめりこんでしまうこともある。でも、不思議と後悔はしていない。この性格のせいで、自分では想像もつかないほどちんぷんかんな人生を過ごしているが、それでもなんだか・・・幸せだ。はかなく燃え尽きる時も、人生に疑問を感じながらも、決して後悔はしない。後悔のない人生を送ることなど、なかなか難しいものだ。たとえ必要以上に忙しく生活していても、意外と私は自分の人生を楽しんでいるようだ。映画を見終わっての感想は「一生懸命に生きる」。これに尽きる。